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報恩寺 松根光広の墓(福岡県柳川市)

          柳川

報恩寺は寛元3(1245)年に筑後西牟田の地頭西牟田筑後守家綱の子西牟田筑前守家村が蛭池村(現在の大木町蛭池)に建立した大興山慶雲寺が始まりとされる寺院ですが大友氏の柳川侵攻で焼失、その後立花宗茂が柳川領主となる頃に再興し、田中吉政が藩主時代の慶長9(1604)年に縦寅雲逸禅師開山の曹洞宗寺院となっています。

          柳川

本堂

             柳川

松根光広の墓
備前守  最上義光の甥に当たる人物で1万石、のち1万2千石を領した最上家一門重臣。関ヶ原の戦いの時点ではまだ12歳なので合戦などでは目立った活躍はありませんが、この人が脚光を浴びたのは最上家改易へとつながる最上騒動の発端を作ったということ。山形藩2代藩主最上家親の急死に関して叔父楯岡光直(最上義光の弟)が暗殺したと幕府に訴え出ますが証拠が無く光広は改易され柳川の立花宗茂の元へ配流されることとなり、その後も重臣間の対立が続いた最上家は1万石、その後さらに5千石にまで減らされ山形の地を離れることとなります。

光広の長男の家系はその後立花家家臣となり、次男の家系は伊達政宗の母親が最上義光の妹であるという関係から宇和島藩伊達家に仕え子孫には幕末の家老松根図書や図書の孫で俳人松根東洋城などを輩出しています。立花家も伊達家の縁戚となるため御住職の話だと柳川藩に仕えた長男の家系も待遇はよかったようです。


御住職に墓まで案内していただきましたが、この記事を書くために検索していると光広の件を調べていた昨年夏にはなかったお寺のホームページが立ち上がっており光広の墓の隣にあった古い墓碑群が秀吉の九州征伐までの肥後宇土城主でその後筑前に移され江戸時代は柳川藩に仕えた名和氏(伯耆氏)一族の墓という記述が。個人的に再訪する必要ありです。


【住所】
柳川市西魚屋町50


            


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Author:けん
戦国武将にまつわる史跡と味のある建築探訪をテーマに暇を見つけては各地を彷徨っている40代前半の会社員(オッサン)です。ノスタルジックなもの・ローカル色強いものを好む習性があります。 


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