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奥田三郎右衛門忠次の墓(大阪府柏原市)

          柏原

大坂夏の陣で徳川方を迎え撃つため出撃した後藤又兵衛が戦死した場所として知られる小松山。元々は古墳と伝わるこの場所は近鉄河内国分駅から徒歩15分掛かるかどうかとそれほど遠くない場所にあり、現在は開発が進んで住宅地となっています。






      
         柏原

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奥田三郎右衛門忠次の墓
大和口から攻める徳川方は水野勝成が大将を務め伊達政宗ら大軍を率い、その先鋒を戦場に近い場所に領地を持つ者が務めるという当時の慣例に倣い松倉重政・桑山元晴・奥田忠次ら大和衆が受け持ちます。奥田氏は現在の奈良県山添村一帯に所領を持っていた大和の国人領主で豊臣秀長らに仕えた奥田忠高が関ヶ原の戦いの功により2800石、忠次は忠高の息子になります。

夏の陣では真っ先に小松山に攻めかかるも山頂を押さえていた後藤又兵衛隊の先鋒山田外記らに上から攻め立てられ壊乱、忠次自身も討死してしまいます。忠次のこの功績もあってか戦後500石加増され奥田家は3300石の大身旗本として明治へ至るまで家名を保ち、この墓はその旗本奥田家が建立したものです。


            柏原


『大坂御陣覚書』によれば忠次は2800石の身分に不相応なほど高名な浪人5名を召抱えていたとされ、そのうちのひとり岡本加助(豊臣秀次旧臣)が本隊が到着するまで待つよう桑山左近(桑山元晴の弟貞晴)が諌めるのを無視して真っ先に突出し射殺されたことで忠次隊は動かざるをえなかったようです。その他の4名も忠次とともに討死しており、忠次の墓の横にある5名の家臣のものと伝わる墓はそれら5名の墓と思われます。


             

※指している場所は小松山古戦場跡の石碑のある場所です。忠次の墓の場所も案内板が何箇所かにあるので特に道に迷うことは無いかと思います。

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けん

Author:けん
戦国武将にまつわる史跡と味のある建築探訪をテーマに暇を見つけては各地を彷徨っている40代前半の会社員(オッサン)です。ノスタルジックなもの・ローカル色強いものを好む習性があります。 


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